「資源」と「生活」もし、人が利益とか生活のためと考えないで、本当に心の底からやりたいことをやれたなら、 それこそが、本当に自分自身がやらなければならないことなのだと思います。 自発的にやることは、たとえ困難が待ち受けていようとも、 心の奥から楽しんでできるので、きっと良い結果が出ると思います。 以下、「フラーがぼくたちに話したこと」 ぼくたちからの質問 より転載 ================================ (ベンジャミン) みんなにとって食べ物やエネルギーや資源は充分にあって、必要なものはすべて、誰もがみんな得られるはずだと考えてますよね?でも、もしそうなったら、みんなただ横になって、なんにもしなくなるんじゃないのかな? つまり、もしもいろんなものが得られるんなら・・・・・。 (フラー) そうだね。もうすでに、そうやっている人もたくさんいる。なにもやらない金持ちがたくさんいるじゃないか?自然は時間とともに発展していく。人間が充分な経験を積み、なにかことを成すには、たぶん2,3世代かかるだろう。チームのみんながタッチダウンしてるわけじゃないんだ。革命的になにかが起こるまでには、かなりの社会活動が必要となる。でも、それは起こると思うよ。 (ジョナサン) もうすでにものは充分あるのに、“稼がねばならない”不安から、ほとんどの人は行きたくもない仕事に行かされているって言ってましたよね。いつ人は変わって、嫌な仕事に行かなくてもいいと思うようになるのかな? (フラー) もうすでに、全員が高い生活水準を保てるだけのものはある。でも、それは組織化されなければいけないんだ。つまり、配給だよ。それから、配給用の製品を生産しなければならない。そしたら10年で、全員が高い生活水準楽しめるようになれると思う。 みんながそうしようと決めたら、の話だかね。 今も「稼ぐ」という言葉があるが、それは必要なものがみんなにとって充分にはない、という仮定にもとづいている。もしもみんなにとって充分なものがないのなら、いや、充分に行きわたっていないのなら、生命を維持するために、食べものやエネルギーや住居を得るために、たしかに必死に稼がなければならない。 けどね、平等な配給体制をつくりだせば、もう生活の糧を求めて“稼ぐ”必要はなくなる。自分が“やりたいから”やるんであって、生活のためにやる、なんてことは誰も言わなくなる。 “稼ぐ”ことの一部としてなにかをやるのをやめたときから、やる必要があるからやるんだ、と思えてくるよ。そうしたいと思うからやるんだ。じょうずにやりたくなったり、他の誰よりもうまくやれることを見せたくなったり・・・・・だから、やるんだ。人がやることはなんでも、“稼ぐ”ためではなくなるだろう。 ================================ |